平安時代の火事

平安時代には火事が多く、歴史に残る大きな火事も何度もあったようです。
とくに大規模な火事は下記のとおり。

★安元の大火 安元3年4月28日(1177年6月3日)
★治承の大火 治承2年3月24日(1178年4月13日)

これ以外にも、大きな火事は少なくありませんでした。

ここでは、藤原道長の火事にまつわるエピソードについてみてみたいと思います。

内裏の火事で天皇に退位をせまった道長

長和4年(1015年)11月、内裏が二度に渡って焼け落ちるという事件が起こります。
公卿たちの間では「天下滅亡のときが来た」とささやかれるようになりました。

道長はこの好機を逃しませんでした。

「内裏の火事は、天皇の不徳が招いたものとせん」
として、天皇に強く譲位を迫ったのです。
これによって三条天皇は道長に対抗することはできず、譲位せざるをえなくなります。

長和5年(1016年)2月、道長の孫である皇太子・敦成親王が「後一条天皇」として即位します。
道長は、天皇の外戚としての地位を確保し、栄華への階段を昇っていくことになります。

自宅の火事により豪邸の再建に成功した道長

内裏の火事の件で天皇に退位を迫り、自己の地位確立に利用した道長ですが、
自宅が火事になった際には、その才覚によって消失以前より豪邸に再建する手腕を発揮します。

『源氏物語』に登場する八宮邸の火事

『源氏物語』の後半には、おちぶれた宮様、八宮が登場します。
由緒正しい出自のため、広い邸宅には、
価値ある調度品などが豊かに残っていたのですが、
不幸続きの中、自宅が消失してしまいます。

おちぶれてしまった身では、自宅の再建はならず、
宇治にある別荘に移り住むしか方法がなくなってしまいます。

この時代に限ったことではないでしょうが、
平安の世においても、権力を持たない者が火事の憂き目にあった場合の末路は、
多くがこのようであったと想像されます。

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火事再建に見られる道長の手腕

長和5年(1016)7月21日の未明、
藤原道長の豪邸は隣家からのもらい火によって全焼してしまいます。
近隣の500戸もが焼き払われた大火事でした。

道長や家族たちは命は助かりましたが、
家屋敷、家具調度などすべてを失ってしまいました。

けれども道長はすぐさま再建に取り掛かり、
結果的には消失前より以上の豪邸をわずか2年ほどで完成させてしまいます。

受領たちの手を借りた再建事業

道長の再建手腕にはすごいものがあります。
できる実業家の思考は違う、と感心します。

道長は、お金のある受領たちに造営を割り当てたのです。
再建の費用は、自らの財布から出すのではなく、
受領たちのお財布から出させたのです。

受領たちにとっては、有り余る財産を投じることによって、
地位ある道長に認められるかもしれないという大チャンスでもあったのです。

道長と富裕な受領、それぞれにとってwin winであったということです。

その結果、寛仁2年(1018)8月に再建された道長邸は以前に倍する豪華さとなりました。

中でも際立っていたのが源頼光の献上品でした。
すべての家具調度類、屏風、建具、几帳、逗子、食器、アクセサリー、楽器、衣類に至るまでを大々的に献上したのです。

しかも、その献上品は道長が引っ越して宴会を催すという日に、
わざわざ多くの人々の目に触れるように派手な献上の仕方をしました。
当日には、都中から見物の人が訪れたと伝えられています。

まとめ

あってはならない火事。
しかし、その災難にあったとき、人物の栄華の差が際立ってしまうのが現実です。

道長の豪邸「土御門殿」は以前に倍する豪華さに再建され、
その後の栄華を後押しするできごととなりました。

それに対して、物語の中のできごとではありますが、
八宮邸が再建されることはありませんでした。

いっぽう、光源氏の息子薫が住む三条邸はみごとに美しく再建されています。

人の世の中の残酷さを感じてしまうのは私だけでしょうか。

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-古典コラム

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