和歌にうたわれない紫陽花

梅雨に入り、紫陽花の美しい季節になりました。
読書会で『源氏ものがたり』を読んでいると、たくさんの歌がちりばめられていて、当時の方々はラインメールを送るような感覚で、自然に言葉が歌となってあふれていたのかと感心させられます。

ところで、紫陽花が気になる季節になり、
ふと紫陽花の歌は見たことがないことに気づきました。

そこで調べてみましたら、紫陽花は昔からほとんど人気のない花だったことがわかりました。

日本で現在のような華やかな紫陽花が普及してきたのは、
まだ歴史が浅いようです。
「西洋あじさい」と呼ばれるてまりのように丸い形の大きな花をつける紫陽花は、
日本生まれの西洋育ちで昭和に入ってから品種改良を重ねられたもののようです。

源氏物語の時代の紫陽花はガクアジサイ。

一塊になったお花の縁は大きめの花で飾られ、真ん中は小さな花がかたまっています。
とてもかわいい花だと思いますが、現在多く普及しているものよりずっと地味な感じです。

奈良時代に詠まれた紫陽花2首

奈良時代『万葉集』の中で詠まれた紫陽花は、なんと2首のみ。

言問はぬ木すら味狭藍 諸弟らが 練の村戸にあざむかえけり  大伴家持
(こととはきすらあぢさゐもろとらがねりのむらとにあざむかえり)  
言葉を言わない樹でさえ紫陽花のように移り変わりやすいものです。諸弟らの巧な心に騙されました。

この歌は久邇京(くにのみやこ)にいた大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)が、奈良の平城京に残っていた大伴坂上大嬢(おほとものさかのうへのおほをとめ)に贈った五首の相聞歌の内のひとつです。
このころから、紫陽花の花をうつろいやすいもののたとえとして登場させていることがわかります。

「あなたに騙されました」とは、どうやら穏やかならぬ歌のようですね。

安治佐為の八重咲く如くやつ代にをいませわが背子見つつ思はむ(しのはむ) 橘諸兄
あじさいが 幾重にも群がって咲くようにいついつまでも 健やかでいてください。この花を見るたびにあなたを思い出します。

755(天平勝宝7)年5月11日に行われた宴席で館の主、丹比国人(たじひのときひと)の長寿を祝って、橘諸兄が詠んだ歌です。

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平安時代に詠まれた紫陽花2首

『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』には、紫陽花に関する記述がまったくないようです。なんだか寂しいですね。詠まれた歌もたったの2首。平安時代にも、まだ人気がなかったようです。

あぢさえの下葉にすだく蛍をばよひらの数の添ふかとぞみる  藤原定家 『拾遺愚草』
紫陽花の下葉に集まっている蛍の光は四片(よひら)に咲く花に見まごうばかり

蛍の光に浮かぶ紫陽花の花の幻想的な風景を詠んだ歌です。『拾遺愚草』に掲載されています。

茜さす昼はこちたしあじさゐの花のよひらに逢ひみてしがな  穂積皇子 『古今和歌六帖』
昼はうっとうしく見える紫陽花も宵になると四片(よひら)の花びらが艶やかになります。そのような宵にあなたとお逢いしたいものです

いずれも、紫陽花の花びらを「よひら」として取り上げています。

一塊の周囲を縁取る大き目の花びらが4枚あるからですね。

「あじさい」の語源は?

「あじさい」の語源は
 「あじ」は集(あづ)で「ものが集まる」
 「さ」は真(さ)で真実
 「い」は藍 
青い花が集まって咲く様子をあらわした名前ですね。

「紫陽花」の表記は平安時代に中国の別の花と間違って使われるようになったようです。
ちなみに、日本から中国に渡ったあじさいは中国で「八仙花」と呼ばれているそうです。

江戸時代にも植木屋から敬遠された紫陽花

安土桃山時代には、てまりの形の紫陽花が登場し、狩野永徳の絵にも描かれたとのことですが、こちらもあまりメインの作品にはなっていないようです。

江戸時代に入っても植木屋さんから愛されず、日本の園芸文化の中に根付くことはありませんでした。

明治・大正になっても人気は出ませんでした。

戦後になってやっと、観光名所に紫陽花が多く植えられるようになり、たやすく増えることから、各地のお寺が紫陽花寺として多くに人々の鑑賞の対象になっています。

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