光源氏 モデル はだれ?源氏物語

かなりの長編源氏物語。
後半は息子の時代になりますが、前半は「光源氏」の一代記。
誕生秘話から細かく書かれているのですが、こんなに詳細な設定をするのですから、
だれかモデルがいるはずでは、というのは長く言われている話です。

さすがの紫式部も全くのフィクションで、
これだけの長編を複雑な人間関係で書くのは難しいのではないかと思うのは普通のこと。

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では、光源氏のモデルはだれなんでしょうか

現在言われている最も有力な説は、62代村上天皇の腹違いの兄弟「源高明」ではないかという説です。
源高明は左大臣であったもものの、
将来天皇の外戚になることをおそれた藤原氏に貶められて、
太宰権師に左遷された悲劇の皇族といわれています。
左遷事件は969年安和の変
源氏物語が書かれる40年前の出来事です。

さて源高明説のその手かがりとなるのが「いずれの御時にか」の
「御時」とはいつの御世かということです。
これがわかると、光源氏は天皇の息子なのですからはっきりします。

Ⅰ『河海抄』から考える

1362年に四辻善成によって書かれた『河海抄』が参考になります。
1362年と言えば、源氏物語が書かれて300年後ですから、
その頃から源氏のモデルが誰であったのかが議論されていたのでしょう。

「物語の時代は醍醐、朱雀、村上三代に准するか。
桐壺御門は延喜、朱雀院は天慶、冷泉院は天暦、光源氏は西宮左大臣。
このごとく相当するなり。
桐壺巻に最初に両所までとりわきて亭子院の御事を載たり。」

源氏物語の時代は醍醐、朱雀、村上天皇の時代であるといっているわけです。

ここでこの当時の天皇家の系図を見てみます。
延喜=醍醐  天慶=朱雀  天暦=村上 西宮左大臣=源高明 と置き換えて読んでください。

源氏物語の系図と照合するとこんな具合になるでしょうか。

Ⅱ「源氏物語」の中から考える

①「亭子院」の記載

源氏物語桐壺の巻で桐壺更衣が亡くなった後、
更衣の母からの手紙を読んで悲しみを深くする場面で次のような記述があります。

命婦は、『まだ大殿籠もらせ給はざりける』と、あはれに見奉る。御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせ給ひて、伊勢貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせ給ふ。

ここでは、桐壺帝が「亭子院」に描かせた玄宗皇帝と楊貴妃の絵を眺めて、
自分と桐壺更衣の思い出にふけっているのですが、
この「亭子院」というのは醍醐天皇の前、59代「宇多天皇」のことなのです。
桐壺帝が宇多天皇の描いた絵を見られるのですから、
桐壺帝のモデルは宇多天皇の時代よりも後と言うことができるのです。

②「宇多帝の戒め」

また、源氏が7歳になって、
あまりに聡明なのなことに困惑した桐壺帝が
高麗人に将来を占わせる有名な場面にこんな記述があります。

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そのころ、高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを聞こし召して、宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚館に遣はしたり。 御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。『国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ。 朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし』と言ふ。

ここでいう「宇多の帝の御戒め」とは宇多天皇が、
年端のいかない醍醐天皇に譲位することになったとき、心得として書き記したもので、
「外国人と会うときには御簾を隔てて直接対面してはならない」という内容です。

桐壺帝は高麗人に占いをさせる時に、
宇多の帝の戒めに従順に従っています。
宇多天皇から代を隔てた人がそうすることは想像しずらい。
だから、この桐壺帝は醍醐天皇ではないかということです。

③桐壺帝生前の罪で往生できず

次は明石の巻で明石に流れされた光源氏が父桐壺帝の亡霊と話をする場面です。

いとうれしくて、「かしこき御影に別れたてまつりしこなた、さまざま悲しきことのみ多くはべれば、今はこの渚に身をや捨てはべりなまし」と聞こえたまへば、「いとあるまじきこと。これは、ただいささかなるものの報いなり。われは、位にありし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世をかへりみざりつれど、いみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、海に入り、渚にのぼり、いたく極じにたれど、かかるついでに内裏に奏すべきことあるによりなむ、急ぎのぼりぬる」とて、立ち去りたまひぬ。

「われは位にありし時」と話しているのは桐壺帝です。

自分が在位中に知らない間に罪を犯していてその罪を地獄で償っていたので忙しく、
この世のことを知らなかったのだが、
今やっとお前の苦しんでいることを知ったから
今の天皇にお前を内裏に戻れるように言ってやる」と言っています。

ここでは、桐壺帝は在位中に罪があって成仏していないように書かれていますが、
実際に『北野縁起』には醍醐天皇が生前犯した五つの罪で地獄に落ちたと書かれているのです。

Ⅲ醍醐天皇の妻の多さ

実際の醍醐天皇の後宮は充実していたことで有名でした。
『河海抄』から抜粋すると

中宮 藤原穏子、藤原穂子
妃  為子内親王
女御 源和子、藤原能子、藤原善子、藤原和香子、藤原姫子
更衣 源封子、満子女王、藤原鮮子、藤原淑姫、源園子、源正子、滋野幸子、源柔子、
源清子、源俊子、平充子、源暖子、源桑子、源周子(近江更衣)第十二皇子:源高明(914-982)仲野親王女、源昇女、中納言兼輔女、右兵衛督敏相女、参議伊衛女

実に27名もいるのです。
その中で、光源氏のモデルといわれてるいる源高明の母「源周子」はやはり更衣なのです。
周子は和歌が上手なとこで後世に名を残し、
たくさんの子供を生んでいますから、
時の帝醍醐天皇の寵愛が深かったことも事実であり、
桐壺更衣と重なる部分が多いのです。

まとめ

『河海抄』の記述を参考にすると、光源氏のモデルは源高明。桐壺帝は醍醐天皇。
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