『更級日記』 乳母の死 現代語訳 おもしろいよくわかる古文

先生
『更級日記』は平安時代中期に書かれた回想録。 少女時代を振り返って書いています。 作者の菅原孝標の娘は、『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母の異母妹です。 彼女が『源氏物語』に夢中になったことは有名です。

『更級日記』 乳母の死 の原文冒頭

その春、世の中いみじう騒がしうて、松里の渡りの月影あはれに見し乳母も、三月一日に亡くなりぬ。 せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣き暮らして見いだしたれば、 夕日のいと華やかに差したるに、桜の花残りなく散り乱る。

『更級日記』 乳母の死 のあらすじ

源氏物語の世界が京そのものだとあこがれて上京した女の子が、
上京三ヶ月後に乳母やあこがれの姫様の死を経験し心塞ぐ様子。

『更級日記』 乳母の死 の超現代語訳

その春は、世の中に疫病が大流行してたいへんだったの。
なつかしい私の大切な乳母も疫病で亡くなってしまったのよ。

治安元年(1021年)春から秋にかけて疾病が流行しました。 乳母もこの疾病で命を落としたと思われます。 当時の疾病の流行は、多くの人が亡くなる怖いものでした。

私が東国の上総の国にいた時に、
松里の渡りにいた乳母の姿が思い出されるわ。
あなたは、月の光に美しく照らされていたわね。

幼いころから私をいつくしんでくれたあなただったのに。
あれが最後の別れになってしまったのね。

乳母との別れから3ヵ月あまり。 作者は、東国から離れる旅の途中で、 出産直後の乳母と対面していました。 ふさわしくない粗末な小屋に横たわっていた乳母は、 とっても美しくて作者の心に残っていたのに・・・。

3月1日に亡くなったそうよ。

私はあまりに悲しくて、どうしようもなくって、
大好きな物語を読みたい、
とさえ思わなくなってしまったわ。

毎日、毎日泣いてばかり。

ある時、ふと、外を見たら、桜の花が散り乱れていたの。
もう、枝にはわずかしか残っていないほどに散ってしまった桜の花びら。
それが、夕日のとっても華やかな光の中で舞っていたのよ。

私は感極まってしまって、思わず歌を詠んだわ。

散る花もまた来む春は見もやせむやがて別れし人ぞこひしき
今、こうして散っている桜の花は、
来年の春もきっと美しい姿を見せてくれるのでしょう。

それなのに、あのまま別れた乳母とはもう会えないなんて。
なんて恋しくて悲しいの。

 

しかもね、お噂によれば、侍従の大納言の姫君までおなくなりになったそうなの。
姫君は中将殿とご結婚なさっていたのよ。

そのご主人の中将殿が、それはそれはお嘆きになっていらっしゃるとか。
悲しい気持ちは私も同じ。
親しい人を亡くした悲しみはつきない、たまらないわね。

「侍従の大納言」は「藤原行成」のこと。 書がうまく三蹟のうちのひとり。
藤原行成の娘は、藤原道長の息子の「中将」と呼ばれる人と結婚していました。

亡くなった姫君は素敵な方で、私にはたいせつな思い出があるの。

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私が都に来たばかりのころに、お父様が、

これを手本にしてお習字なさい。
と言って、この姫君が書いたものをくださったの。

お父様が「三蹟」のひとりの藤原行成さまですもの。
姫様の筆跡も、それはすばらしいのよ。

当時は、字の上手な人が書いたものを手本にして 書の練習をしていました。

「さよふけてねざめざりせば」という
拾遺集の歌なんかが書かれていたの。

さよふけてねざめざりせばほとどぎす人づてにこそきくべかりけれ
夜が更けて、ふと寝覚めなかったら、このほととぎすの初鳴きを人から聞くだけで自分で聞くことができずに、悔しい思いをしたことだろう。

書いてくださった歌の中には、こんな歌もあったわ。

鳥辺山谷に煙のもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ
鳥辺山の谷に煙が燃えたっていたら、
はかなく見えた私が亡くなったのだと知ってほしいのです。

それがまた、ほんとうに美しい文字なのよ。
風情もあるわ。
ご自分の命のはかなさをご存知だったかのような歌よね。

その筆跡を見ていたら、悲しくて悲しくて、
私の涙はあふれて止まらなくなってしまったわ。

『更級日記』に書かれた人の死

『更級日記』は、夫の死をきっかけにして、
自分の少女時代を思い返して書いたとされています。

また、この時代、疫病で命を落とす人は多くいました。
なにしろ、病気の一番の治療法が加持祈祷だったという時代です。

あらがえない死に直面するたびに、
彼女もつらい思いをしていたはずです。

薄幸だった藤原行成の娘

作者の父・菅原孝標は、蔵人として、上司の藤原行成のもとで働いていたことがありました。
そのご縁なのでしょうか。

藤原行成の娘が書いた書を手に入れて、娘に手本とするようにと渡しています。
能書家の藤原行成の娘ですから、さぞ達筆であったと考えられます。

この時代は、上手な人の文字を見て文字の練習をしたのですね。
ですから、達筆な姫の書を手に入れられたというのは、
とても貴重な意味のあることなのです。

お手本として頂いた書の中に、『拾遺集』の哀悼歌(人の死を悲しんで詠んだ歌)がありました。

ところで、行成の娘は薄幸の人でした。
12歳で藤原道長の13歳の息子「中将殿」と結婚しますが、16歳で亡くなってしまいます。夫の中将殿の悲しみは、とても大きいものでした。

お手本として頂いた歌の内容が、まるでご自分の近い将来を暗示していたようだと、藤原孝標の娘は、ますます涙をそそられてしまったのです。

参考サイト ↓

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